叫び


 叫びといえば、ムンクの叫びを思い浮かぶが、ムンクが叫んでいるのでは

なくて、画家ムンクが描いた「叫び」というタイトルの絵である。そもそも

ムンクの作品で知られているのがこれくらいだし、なぜこの絵が有名なのかも

よくわからないが、顔まねをする人も多い。著者は叫んでいる人よりも、

後ろの通行人のほうが気になるのだが。

 アニメやドラマを見ていて、女性が誰かに襲われて甲高い悲鳴を上げる。

すでに遅いのだが、近所に勘違いされないようにボリュームを下げる。著者が

たまに夜中に聞く悲鳴は隣のテレビだったのだろうか。とりあえず気になって

ベランダの外を見渡すのだが、暗くて何も見えない。夜こそ声がよく響くので、

本物かテレビか区別はつかない。

 大声大会というのはただ喉を痛めるだけだろうと思うのだが。それに叫ぶ

内容に困るやも知れない。「バカヤロー」だと自分が馬鹿のような気もする

だろうし。ただほえるのも同様だ。それに優勝しても声がでかい人という

レッテルを貼られるだけだと思うのだが。著者も小学生の頃は意味もなく

叫んでいたのでそう思うだけかもしれないが。

 

 野猿の叫びはいいね(何


あだ名


 厳密に言うと英語の「ニックネーム」と日本の「あだ名」は違うものだろう。

ニックネームは名前を短くした「愛称」であると思う。それが苗字まで適用するかは

わからないが、特に問題の無い呼び名であるだろう。

 それに対し「あだ名」は、相手の特徴を捉え(欠点の場合が多い)、それをもじった

言葉を呼び名に当てる。基本的に呼ばれて嬉しくないものだ。

 著者の場合、「タケチャンマン」というあだ名は嫌だった。馬の名前か、お笑い

キャラの名前だったか、戦隊ものやロボットものが好きではなかったからか、「マン」が

つくのは好きではなかったのだろう。それに給食の献立で「タケチャンマンライス」と

いうものがたまに出、その前後で「ライス」までつくあだ名で呼ばれることもあった。

相手も悪気は無かったのだろうが、食べ物には例えられたくない。それよりも

「タケチャンマンライス」とは如何なるものだったのだろうか、今も謎である。

 前記のように、あだ名でも本名より長くなるものは呼びにくいから意味がないと

思う。が、実際に長いあだ名を聞いたことがあまり無いことも事実である。

投稿はがきで長いあだ名が紹介されて笑うのも不謹慎だが。

 

 小学生時代タツ〜に「フニャコ」って呼ばれたのは……(略



 昔は、男子は技術、女子は家庭科と分けられていたが、現在では男女平等

(こう書くと昔は違うみたいだが、実際は昔から平等であったはずだ。むしろ

その分今や女性のほうが強いとまで言われているが)だからか、両教科とも

一緒に学んでいる。それで著者も裁縫などをやったのだが、まず針に糸を通すなど

細かい作業が苦手なのでストレスが溜まる。糸通しなど便利なものはなく、

糸をなめたり、先を細く切ったりして、針穴と格闘していた。通ったら通ったで、

その後縫わなくてはならないのですぐには喜べない。

 針など鋭いものに刺されると痛いと感じるのは、体に触れる面積が非常に

小さい分、その面積にかかる圧力がとても大きくなるからだ。どんなに重い

ものでも平たければ痛みはない。それだからか、針で少しでも刺すと、やけに

痛みが後まで残り、無性に腹が立つ。絶対に刺されまいと思う時ほど、刺された

時の悔しさは大きい。いや、そう思うほど刺されるのかもしれない。

注射よりも痛く感じるときがある。それは指先の方が神経が敏感なせいだろう。

敏感なはずなのにどうして不器用なのだろうか。

 

 授業中に入ってきたハチはやはり目がいくよね(苦笑)


服装


 家族に言わせると、著者は服装のセンスがないらしい。自分では大丈夫と思って

いても、それがいけないとなると自分では決められないので、「服はどれがいい?」と

聞かれても答え様がない。それでさらに疎いものと思われている。

 さらに、気候に合わせての服装もずれているらしい。自分が暑いと感じているのだから

薄着でもいいだろう、と思っていると周りは長袖だ。夏服のカッターシャツでも秋になると

半袖なのは著者と数人くらいだ。でも暑いと感じて汗をかいて、それが冷えて寒くなるよりは

ましだとは思うのだが。

 そろそろ今年も終わりで、大晦日といえば紅白歌合戦。また豪華な衣装対決、などと

銘打たれるのだろう。すでに衣装を超えているものもあるが。派手すぎとか、金をかけ過ぎ

とかはともかく、皆が衣装に目を取られて、肝心の歌をあまり聞いていないような気がする。

もちろんその歌手は歌は上手いし、それだからこそ稼いであのような衣装を着られるのだ。

しかし誰も歌については感想を言っていない。一体何の大会なのか。

 「お気に入りの服」というものは誰かに存在するはずだが、よく着てよく洗濯して

すぐに古くなるか、よそ行き用とタンスのおく深くにしまい込んで、防虫剤臭くなるだろう。

 

 服のセンスで性格を決めるのはどうかと。しかし着こなしにもよるがね(襟とか裾とか)


言語


 英語やドイツ語など他国の勉強が面倒になってくると、「日本語もままならんのに

どうして外国語ができるかい」などと愚痴をこぼす。あるいは日本語は他の言語に

比べて簡単なのではないかと思うが、それは生まれた時から聞きなじんでいるからである。

英語だって幼いときから学んでいれば今の大学生よりも喋れるようになる。はたから見れば

生意気にも思えるのだが。

 たまに「どうして国によって言葉が違うのだろう。全世界共通になればいいのに」と

思うこともある。しかしどれかの言語に合わせるとなると、他の国の人はその言語を

学ばなくてはならない。ヨーロッパの共通貨幣ユーロのように、新しく言語を作る

わけにもいかないし、その言語を身に付けるまでは言葉がわからなくて不便なこと

ばかりである。だから別々の言語のままなのだ。

 ではなぜいろいろな言語が出来てしまったのだろう。違う言語でも、同じ意味で

似た発音の単語がある。同じ言語の中でも、方言によっては全く通じないものもある。

外国語も一種の方言と思えば親しみも持てるし、覚えやすいかもしれないが、残念ながら

日本語はその「全く通じない」方言に属しているのだろう。

 

 方言と方便は違うゾイ


いくどうおん


 「雲・蜘蛛」や、「箸・橋・端」など、かなで書けば同じだが意味が全然違う

ものが日本語には多い。聞き分けるにはアクセントだけで区別するしかないか、

しばしばアクセントの位置でもめる時がある。そして自分の主張を譲らないことが多い。

 特に「修治収納(おさめる)・勉務勤努(つとめる)」などは試験に出て皆の

頭を悩ませる。雑誌で間違いがあっても、きっと気づかれないか、気づいても他の人は

「どっちでもいい」と思うだろう。しかし人名に使われるこれらの漢字、やはり

覚えていないと失礼である。

 ところで、今まで「異句同音」について書いたが、この言葉の文字通り異句同音の

言葉に、「異口同音」というものがある。区別はつくだろうか。いろいろな人が

同じことを言うことである。他の人が皆そう言っていると、自分の意見が揺らぐこともある。

日本人は協調性を大事にするから、一人意見が違うと掃き出されることもあるだろう。

そんなときに同じ意見の人がいると心強い。アクセントの論議の時はなおさらである。

結局どちらともつかずで終わるのだが。

 異句同音でも、何か繋がりをもっているのかもしれない。

 

 かなり強引な占閉絞、じゃなくて締め。


うわさ


 人々はうわさに飲まれやすい。まだうわさの域ならよいが、これが社会にまで

及んでくるとデマと呼ばれ、人々を混乱に陥れる。オイルショック時に、石油と

関係ないトイレットペーパーが少なくなると言われ、皆が先を争って買い占める。

これもデマによるものだった。恐ろしいのは、例えある人はそれを信じていなくても、

信じている人の手によってそれが現実のものとなりうるから、動かざるを得ないことだ。

 「○○が流行」など、何の根拠も無いものはうわさによるところが多い。これも

うわさからきているものなのだろう。逆に言えば、「○○が流行っている」とうわさを

流せば、ある程度流行を決めることが出来るのではないだろうか。最近は特にインターネットで

誰でも情報をばら撒くことが出来る。例えば自分の好きな漫画を流行らせたい時、さりげなく

「友達から聞けば、○○が流行っているらしい」などと、あたかも既に広まっているように

思わせる。知らない読み手は、自分は遅れているのではないかと焦り、それについての情報を

回収しつつ、他の人にうわさを繋げる。漫画は「一度読んでしまえば」誰でもはまるものだろう。

そしてはたからは誰が言い出したのかわからないが、その漫画が流行する。匿名性を利用して、

漫画家本人がうわさを流すことも可能である。

 

 でもまあ流行ももって75日くらいでしょ(笑)


作品(七)


 前回紹介したのは1冊の半分の5話であった。ここでもまた詰め込みすぎたのか。

 ユマたちと、アデン王子についていったウナイザたちが落ち合う場所は、あのシャノンが

暮らしていると思われる場所である。先に到着したユマたちはシャノンに会う。だがそのとき

ユマは、薬の副作用か、病気が再発していた。安静を余儀なくされる。またそこで、がけ下の

街が魔物により破壊され尽くされていることを知る。ユマが倒したのと別の、しかも兄になる

魔王が指揮をとったとのこと。ユマたちはまた死闘を繰り広げなければならなくなる。

 そこに、ウナイザとラッセルが合流。ラッセルは、エルフであるシャノンの母親に

会わせるという。シャノンが幼い頃、母は他のエルフたちによって連れ戻されていた。

女王の考えが改まり、彼女の罰を解こうというものだった。シャノンは行く気が起こらないが、

皆の説得により渋々行くことに。

 病気のユマと、看病として残ったナキナのところに、あの銃使いの刺客グランビルが現れ、

ナキナを庇おうとしたシャノンの相棒の犬サードが撃たれ、重傷を負う。犬が傷ついたからか、

血を見たからか、ナキナがかけていた水晶の首飾りの力が解き放たれ、迫力に負けたグランビルは

逃げ出す。そのころシャノンたちは、彼の母親の待つエルフの城に到着する。

 

 レッドソーロウ:ナキナの周りを血柱が囲み、何物も入ってこれない。しかし「血」って……(>_<)


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